草加光明寺の掲示板に毎月掲出している言葉をご紹介いたします。取り上げる言葉とその解説は、『お寺の掲示板』(江田智昭著・新潮社)等を参考にさせていただいております。
「人は生まれて 生きて死ぬ これだけで たいしたもんだ」
北野武さんの言葉です。お笑いの世界の頂点を極め、映画監督としても世界的な名声を得てきた方だからこそ、この言葉にも重みが出てまいります。しかし、私たちはなかなかそのようにシンプルに生きることができません。江田さんは、その原因を私たちが持つ「執着」であると見ていきます。
『大無量寿経』には、「田あれば田に憂へ、宅あれば宅に憂ふ。牛馬六畜・奴婢・銭財・衣食・什物、またともにこれを憂ふ」とあります。人間はいつの時代も、さまざまなものを「わがもの」として執着し、そこから憂いが発生しているのです。
仏教では、「この世界の中で常にあって変化せず、主体的に存在するもの(=我)」は存在しないと考えます。この考え方を「無我」と呼びます。とはいえ、私たちは「自分自身や自分を取り巻くものが主体的に存在している」といつも勘違いし、それらに勝手に執着してしまいます。
どんなに自分では捨てたと思っていても、執着の心が常につきまといます。執着は苦しみの原因になる一方、私たちの生きる原動力にもなっています。ですから、それらすべてを捨て去ることは実際には不可能であり、人間は「我」や「わがもの」に対する執着に死ぬまで悩まされ続けることになります。
と、執着について深く論じたあとで、それに対置される「無我」の教えについても私たちの人生とは無関係ではないもの、自我の膨張に対して強烈な冷や水を浴びせかけるもの、と述べ、以下のように「我」と「無我」の関係をまとめていきます。
「我やわがものなどはそもそもこの世界には存在しない。それなのに、なぜ私はさまざまなものをそのように捉えて執着し、こんなに悩み苦しんでいるのだろうか……」と冷静に考えてみると、目の前の世界がそれまでとは違って見えるのではないでしょうか?
最後も江田さんの言葉より。今回は難しい内容も含まれますが、皆様とともに仏教の考え方を学び、その思いを深く味わうことができればと思います。
「無我」の教えは、自身の人生やこの世界に対して確実に俯瞰的な視点を与えてくれます。私たちはみな裸で生まれ、たまたまご縁によってこの世界に生かされているにすぎません。「自分」という存在はそもそも虚妄であり、「我」や「わがもの」はこの世界には本来存在しない。つまり、理想の自分・財産・世間的な名声などは、しょせん幻にすぎないのです。
このことを頭の中でしっかり認識していれば、「生まれて生きて死ぬだけで十分」と少しは思うことができるのではないでしょうか?
引用部、すべて「お寺の掲示板の深〜いお言葉」(江田智昭/ダイヤモンド・オンライン 2022年9月5日更新)より
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